遊びというと無駄なものとか、子供とかのイメージが強い。
しかし、遊びは万人において重要な事で、あらゆることを遊びにしてしまう事で、楽しみを持って生活できるのではないか?
全てを遊びに変えてしまうことが、人生を最強に楽しめるスキルになると思う。
今回は「遊び」が最強の「スキル」になるという記事を書いてみたいと思う。
人間は遊ぶ存在
子供は物心ついて、まずする活動は遊びである。
私の子供たちは、庭の石を積み上げて喜んでいる。
大人はまず、そんなことをしない。
石ころなんて、眼中にも入らず蹴って歩くだけだ。
しかし子供は、誰からも教わらずに、石を積み上げて楽しんでいる。
これは、人間の持って生まれてくる、本能に近いものなのかもしれない。
子供と「かくれんぼ」すると喜ぶ
私の子供は、かくれんぼをするとすごく喜び、ずっと「もう一回、もう一回!」とエンドレスでかくれんぼを要求してくる。
かくれんぼは「親を見つけ出せ!」というミッションである。
しかし、それを「遊び」としてやっているから楽しいのだ。
いわゆる「ゲーム」の一種だ。
ゲームと遊びは同じものの範囲となると考えている。
もちろん、何事も「遊び」と捉えてやっていけたらそれが一番だが、なかなかそうはいかない。
しかし、仕事や作業の中にゲーム性を持たせると、楽しさがガラリと変わってくる。
遊びの中にいる人
所ジョージさん
私は所ジョージさんが大好きだ。
なんだかいつも楽しそうにしていて、好感を持っている。
多分、所さんは、いつも遊びの中にいるのかもしれない。
遊んでいるから楽しそうに見えるし、テレビに映る姿も楽しんでいるように見える。
小学生の頃の私
野球を長く続けてきた。
小学生の頃は、とても楽しかった。
いつも楽しく面白い野球なのだが、1番楽しかったのは小学生の頃のこと。
多分、遊んでいたんだと思う。野球の練習も試合の時も。
一勝もしたことが無かった弱いチームだった。
それでも、監督はおもしろくて、チームメイトもわきあいあいと楽しかった。
野球としては、成り立たないくらいの守備力・投手力で、守りの時間が攻撃の3倍くらい長い野球だった。
それでも、生涯で一番楽しく野球をしていたのは、弱小の小学生の頃の事だった。
ガラリと面白くなくなった中学野球
あんなに楽しかった小学生の野球が、中学生になるとガラリと変わった。
変なこと言ってくる先輩や、反抗的な後輩、なかなか勝てない試合に、肩の怪我など。
一生懸命やっているのに結果が伴わず、怪我もして変な先輩からの圧力など、楽しいとは程遠い中学野球時代だった。
今考えると、結果を目標にして、勝てない現状や、チーム内の人間関係など、複雑になっていった。
さらに辛くなった高校野球
結果を求められる高校野球。
甲子園出場は遠い夢、鬼のような監督、上には上がいる上手でパワフルな選手たち。
下手くそな自分。
もう全く楽しいと言えるような状態ではなく、何のために野球をしているのか、訳がわからず、ただ「怒られないために」やっていたのかもしれない。
遊び気分なんて、高校野球には微塵もなく、辛い日々だったように思う。
そして、辛い練習を積み重ね、試合で勝利することができるようになった。
しかし、勝利しても「楽しさ」や「充実」とは程遠く、勝っても「ほっとした」程度だった。
勝つことが目的であり、「正しい道」だと信じていたが、実際は「大好きな野球」が嫌いになっていった。
勝つことが「正しい道」ではない
勝つこと、レギュラーになること、相手を負かすこと、というのがスポーツ競技の目的になりがちだが、実際のところ勝つことが楽しいわけではない。
もちろん、オリンピックの金メダルやプロになって年俸数億円、など仕事としての競技となることを目的としている場合もあるだろう。
しかし、その世界は決して楽しい世界ではない。
勝つことが条件になれば、うまくいかないと辛くなる。
失敗を恐れ、負けの恐怖に追われ、失敗のイメージに苛まれる。
苦しいことこの上ない。
遊びに変える技術
苦しいことこの上ない、スポーツや勝つことを目的とした競技に、遊びというのは遠い世界のように思う。
遊びながら競技するなんて、真逆に思える。
しかし、人間の本来の姿は遊びである。
遊びが基礎に無いと、辛い作業になる。
ただ、人間はつらくても苦しくても、耐えられてしまう。
「過労死」という言葉があるが、遊びで過労死した人を私は知らない。
過労死というのは、つらい現場だと思う。
しかし、人間の本来の姿が遊びであると分かると、つらい現場を耐える事もできるし、つらい現場を辞める選択もできるようになる。
人間は遊ぶことでしか、人間らしさは表現されないと思っている。
自分らしくある時、人は遊んでいる
仕事が楽しい。という人に出会ったことがある人は少なくないと思う。
その人は、仕事が合っているのか?
いや。その人にとって、
仕事=遊びの延長
なのだ。
遊んでいる活動自体が仕事になっているということだ。
第一線のプロ競技の世界では、「遊び」なんて程遠い状態にあると思う。
そんな中でも、遊んでいるようなプロ野球選手がいた。
長嶋茂雄さんだ。
彼は、グランド上で一際輝いていた。
彼にとって野球は、「遊び」の一部だったのかもしれない。
遊んでいる時に一番、輝いて見える。
農業が楽しかった
農業を私は5年ほど一生懸命やらせてもらった。
今は、事情で中止しているが、農業は何故かとても楽しかった。
「農業が楽しい」というのはよく聞く。
畑で遊んでいたんだと思う。
機械を使って、育てたように野菜ができてきて、それを食べて。
農業は難しいのだが、自然の力で成長していく姿を見るのがなんとも言えず楽しい。
植物が成長するのを見るのが楽しいのかもしれない。
自分で計画して畑を作り、タネを蒔いて育て、収穫して食べたり売ったりする。
イメージを形にしやすいのか?
遊びであり、ゲームであり、楽しい農業生活だった。
似顔絵が楽しくない
似顔絵を描いていて、どうも楽しくない。
「似せなければ!」と自分で自分にプレッシャーをかけているのかもしれない。
もしかしたら、お客様の評価にビビっているのかもしれないが。
遊んでいないのだと思う。
遊び心を持って、楽しみながら似顔絵が描けたら、それは本当に強い仕事になれると思う。
訪問リハビリは楽しい
訪問リハビリを2年間、遊び感覚を心がけて仕事をやってきた。
訪問リハビリは楽しく仕事をできていた。おそらく、患者さんと一緒に遊んでいたのだと思う。
仕事を遊びとして楽しみながらできれば、これは本当に強く、そして人生が楽しいものに変わるスキルになると思う。
仕事を遊びと捉えて楽しく取り組む
どうせやるなら楽しくやろう。
ということを言われてきた。
施設で働いている六年間も、利用者さんに対してエンターテイメントの提供と捉えて、遊びながら楽しく体を動かす理学療法として仕事をしてきた。
人間は遊びでないと生き生き取り組めない存在。
という事を理解していなくても、仕事を楽しみと捉えて取り組んでいた。
仕事を遊びに変えてしまう技術。があるとすれば、それが一番強く重要なスキルだと思う。
人生の全てを「遊び」に変えてしまえたら、人生が楽しく充実した、生き生きしたものになる。
ゲーム化がポイント
私が楽しくないと感じている似顔絵だが、絵を描くことは好きだったはず。
それでも、好きではないことを遊びにしろと言われてもなかなか難しいと思う。
そんな時に「遊び化」してくれるのは、計画・目標・実施・記録だ。
何となくやっていると、ゲーム化も何もなく、好きにもならない。
そこで、好きでもない事を好きになるために、「ゲーム化」してしまうのだ。
違う言い方をすると「見える化」とも言える。
計画を立て、目標を決め、実行して、記録を取る。
すると、より面白みを持って実施できる。
やってきた事が見えると、面白くなり、ゲーム感覚で取り組む事ができるようになる。
遊びでやることが最強の人生哲学
好きなことばかりの人生なら、楽しく生きていけそうだが、人生は好きなことだけやっていればいいというほど単純ではない。
好きなことは、そのまま遊び感覚で楽しく実行していき、嫌いなことはゲームにして楽しみに変えていく技術を持とう。
というのがこの記事の主題だ。
その中でも、仕事はできる限り「遊び化」して楽しく実行するに限る。
嫌いであっても「ゲーム化」を考え楽しくやる。
この事が、人生をガラリと楽しいものに変えてくれる。
そして、あなたをより輝く存在に変えてくれる事だろう。
何故なら人は、遊んでいる時に一番輝くからである。